自称ミニマリストやその手の人達の耐えられない軽さ、持ち続けることの強度
あれなんですか? はてなって会社が会社を挙げてミニマリスト(笑)ネタを可愛がっちゃったんですか?
ミニマリストっていうか単に個人の資質としてのキャパが少ないだけで、そういった矮小な個人に見合った所有の度合いをファッション感覚で自慢しちゃう人達・・・という風にしか僕には見えない。ので、3年ともたず相手にされなくなるし、当人達のリアルライフもそれはそれは見窄らしくなるんじゃないかと思っている(多分今も本人達が認めないだけで)。
ほら、与沢翼に感化された、センスの欠片もないのに「俺も一山当てたるで!!」とか言ってやたら儲かってる風にブログとかでアピっておいて、実生活は砂上の楼閣のメンテナンスコストで火の車、な人達がいっぱいいたけど、それと同じ。
ミニマリストなんて名乗っている人以上に、ミニマリストな感じの人っていうのは本人達が言わないだけで存在しているし、でもそういった人達って"持って"いるんですよね。これがビックカメラ女子とか、世界を救えるとか勘違いしちゃってるミニマリスト(笑)な人達との違い。
大事なところで、そもそもに僕がこういう残念なミニマリスト(笑)が嫌いな理由。
僕は、人生ってのは結局誰にだって"グチャグチャしたもの"があるし、それは今も昔も、そしてこれからも変わらない。でも、人が生きていく上でそれを排除した人生を作ることがこれから先のために必要なことではなくて、色々と種類は違えど"グチャグチャしている"ものがあってもそれでも楽しく生き続けることを受け継いでいく、そういうことだと思っているから。
そういう強度、それは何もせずに手に入れたり維持できたりするものではないし、単にそういう努力を放棄して逃げ出した人達が自分で自分にオレ様免罪符を与えて開き直っている。それがミニマリスト(笑)の特徴ではなかろうかと。
人生における強度、それは持ち続ける力、持てるキャパ、そういった言葉で表すことができると思う。
別の視点で見れば、取捨選択の的確性。
捨てることだけでなく、取ることもできる。
取ることは、持つことに繋がる。
ミニマルっていうのは単にボリュームが小さいのではなく、必要にして十分なボリュームに調整することができることこそ、ミニマルだ。仮にそのボリュームが傍から見たら大きくても、当人が毅然とそれを抱えているのであればそれはとても美しい姿だと思う。あくまでも的確さであって、ボリュームの小ささではない。
エセな人達は、安全圏内でそれこそ伸びた爪の先程度にしか価値の無いものを手放したり、一般的な人ですら十分に抱えられる程度の重さからも逃げ出して、狭い村の中で内輪で正当化しあっている。それを外に、スタンダードだと勘違いして吹いて回るから醜いし嫌われる。
社会を変えることも自分を変えることもできないのに、それでも目と耳は塞ぐが口だけは決して塞がず、孤独に生きることも出来ない。 (元ネタ)
ま、そういうある意味で淘汰されてもいいような強度の存在が、存在し続けられる社会になったとは言える。そこに社会リソースが注がれるべきかどうかはまた別問題だし、こっちの視点であれば、そこまで寛容でなくてもいいと思うし。