【社会不適合者は呟く】あまりにも不平等で救われることのない世界。そこでもがく意味。そして"頑張る"の意味。
ドナルド・トランプの大統領選勝利に関し氏が支持された理由としての支持層。これに関しては選挙前に出ていたこの記事に書かれていたような層が取り沙汰されている。 イコール完全な因果関係とまではいかなくとも、それなりにインパクトがあったのだろうね、蓋を開けたら。
敢えてこう言う言い方をするけれど、"救いようがない"層というのが、西海岸や東海岸の富を持つノイジーマイノリティーが思いもしないレベルに存在している国・・・そんなアメリカがあるということなのだろう。とは言えここに書かれているような層というのは日本にいたって目にするので万国共通なのかもしれないし、成熟した先進国の行く末でもあるのかもしれない。
過程はなんであれこんな風になってしまった人たち。
「努力はしないが、バカにはされたくない」という歪んだプライドを、無教養、貧困とともに親から受け継ぐ。
「だが、まずオバマやブッシュ、顔のない企業のせいにするのをやめなければならない。そして、どうすれば改善するのか、自問するところから始めるべきだ」
自然的な話だけでなく、社会的な話としても淘汰というのは避けられないものであると思う。
どんな社会だってそこから落ちていく者はいるし、そこに踏みとどまっている者からしたら落ちていく者達へのセーフティーネットと言う存在に不満を抱くのもまぁ仕方なし。一つの結果に収まらず、相反する印象を持たれながら回っていくのがきっと社会だろう。
じゃあそういう社会ってやつの中で生きてく中で、例えばヒルビリーのような人たちにとって望ましい取るべき手段とはなんだろうか? あるいはこの日本において、まっとうな人様が仕事をしている頃に国会議事堂前でどんちゃん騒ぎをしている偏差値SEALDS級の人達が、だ。少なくとも日本の場合は一定数文化人(とそれを気どる小市民)という似非インテリ枠も存在しているが。
それは結局"頑張る"こと、それだけ。
だがしかし本屋やネット上にあふれるキラキラしたものでは決してない。自身が美しいものでも、その結果がきらびやかなものでもない。そういう言い方をする人間は大半が薄っぺらい大嘘つきだ。
頑張るっていうのは、下りのエスカレーターを上がり続けるみたいなもん。下るスピードよりも早く登れなければどんなに汗を流したところで今よりも落ちてしまう。ずーっと同じ高さにいるだけかもしれない。うまく登りきったとしても、さらに上のフロアに行きたければ、そこにたどり着ける保証なくまた同じことをしないといけない。
そういう頑張りの連続っていうのが結局、人が生きるってことなんじゃないかな。人によってはエレベーターが使えるし、エスカレーターが下りではないかもしれない。下降速度が遅いこともあるだろう。
そしてそういう違いは、自分の及ばない自分以外の状況でしかない。自分が生きていることも、それすら状態でしかなくそこに意味などない。
・・・っていうのを踏まえて、「でもそれが頑張るってことだし、人の世で生きるってことだ。それをやらないでひたすら降り続けるのは自由だし、そこに救いの手を差し伸べるのも食い物にするのも自由。隣の奴には救いの手が差し伸べられて、自分には無い・・・そんなことだって当たり前に起こる。」ってのをもっと大宇宙の法則的に誰もが思っとくべきなんじゃないか。自分が/他者が何かをする/しないとかに関係なく、ダメなものはダメだしなんでそうなるかわからんがうまくいくことだってある。
頑張ることと、キラキラとしたうまくいくことに因果関係を期待してはダメ。
どんなに逃げるのが上手くても捕食者に捕まることだってあるわけで、でも捕食者から逃げようとすることを放棄したら自然の中では生きていけない。下り続けるエスカレーターを登り続けるっていうのはそれと似たようなもん。そこに意味も理由も成果も求めてはダメ。
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