感性のメンテナンスとしての節制と消費
貧乏自慢とか、開き直って持たない(その実、単に持てない)教の狂信者とか、底辺だなんだドヤ顔したりっていうのはとてもセンスが無いと思っている。そんなに自分で自分を慰めたりしてて、生きてる価値ないって思わないのかな。
お金は大事ですよ。使うことも含めてね。
一方で一時期の情報商材屋さんブームじゃないけど、虚実どっちもで使わなくていいお金を使うっていうのも、そういうことができる商魂は認めるけれどもそのビジネスモデルとやってる本人は本当にセンスが無いなぁっても思っている。
余剰分の扱い1つとっても、その人のセンスって推し量れるもんでさ。お金以外のものであってもね。
じゃあお前はなんなんだ、と言われたら、使うし使えるだけ稼いでるし、でも別に使わなくてもいいやっていうか超使わない・・・っていう、どっちもです。ずるいか? どうでもいいけど。とにかく使ったり使わなかったりを、大部分は気分で決めている。気分で決めているけれど、その意思決定を司る気分とやらを整理したり磨いたりするのが目的そのものであったりもする。
じゃぶじゃぶお金を使ってなんでもやっていくのも、1日1食うどん屋の200円くらいのかけうどん+野菜ジュースとかそういう生活を続けたりするっていうのも、自分にとっては自分の感性に刺激とか負荷を与えているような気でいる・・・という言い方もできる。
消費や節制といった行為それ自体は、結局のところお金を使ってできる行動によりもたらされる結果の制御のための手段。
温水と冷水を交互にかぶって肌に刺激を与えて良いコンディションを保つように、消費と節制という両端の刺激を感性に与えることで思考や感覚が偏らないようにする。
「いいじゃん、とりあえず買っちまえば。」みたいなのを続ければ、"買う"以外の手段を考える力や"買う"という手段で得られる結果以外に対する感覚は鈍っていく。そして逆にとにかくお金を使わない、例えば良くある「フリーソフトだけで捗る〜な環境」みたいなのだって、最終的なアウトプットを得るための思考とは別の「そこに至るまでにどういうフリーソフトの組み合わせで、有償のソフトと同じ結果にたどり着けるか?」みたいな工夫を生み出す思考が加わってくる。これはこれで頭を使うわけだが、それにしたってやり続けたら目的と手段の混同や、使わなくていい時間を使ってしまうわけで。