funny rain, sweet breathing

なんてったって社会不適合者物語

記憶を辿る景色、風を持たない夢、生まれて始めて"いた"感覚

ただただパーソナルな話をだらだらと書く。ずっと昔に見たことのある景色が、たまに夢の一部として出てきた。長い時間が過ぎた頃にその場所を訪れたら、懐かしさではなく、久々の来訪という現実の体験すら後から思い出すと夢と区別がつかなくなった。そんな珍しい感覚を体験したので、どこでもいいから記録しておきたいのだ。

夢の中に出てくる景色。全くもって意味不明な場所を歩いていることばかりだが、その出元は自分の記憶のはず。

記憶が断片化され、ランダムな配置やレイヤーとなって、夢の景色が創りだされる・・・そんなメカニズムが頭の中にやっぱあるんじゃないかとか思っている。

そういった景色のオリジナルと、出会った。再会なのかもしれないが。

自転車で遠出をしたついでにちょっと足を伸ばして、小さい頃に見ていた景色を実際に走ってみた。それこそ20年弱ぶりだ。

今住んでいる場所から100km程度離れた場所。電車に乗れば2時間程度で着くっちゃ着くのだが。実家や特に馴染みの友人がいるというわけでもないので、二度と足を運ぶことはないだろうと思っていた。自分の幼少時や10代はいい思い出がまったく無いし、不思議なくらいに記憶が欠けている時期もあるくらい。

今回走ったのは、そんな場所。

かつて、車の後部座席の窓から眺めるだけだった景色。ただルーチンのように車で運ばれながら、通り過ぎる電信柱の数を数えるだけだった景色。何しろ、当時自分にとっては住んでいる市の地図こそが最大の地図であり、許された世界だった。自分の意志で、その境界を超えることは許されなかった、そんな環境で生きていたのだ。

そんな景色の中を、感覚として僅かに残っている方向感覚を頼りに、ペダルを漕いだ。

20年も経てば変わっている建物や道もあるが、景色としての形は概ね昔のままである。

「ああ、こんな風だったなそういえば」と思いつつも、どこか新鮮さを感じていた。その原因はおそらく、空気、風だろう。どこかその場所に"いる"というのは、やはりその場所に自らの足で立ち、空気に触れて初めてなされることだと思う。

特に旅をしていて思うのだが、全く異国の地で、それでも訪れた場所に自分を組み入れるための儀式は、自分の足で歩くことだ。例えばバスで名所を転々とするだけのツアーとかになってしまうと、どうも自分がその場にいたという気がしない。これと似たようなものなのかな。

決して外部と繋がらない、自動車という箱の中で見ているしかなかった景色、場所。その空気の中を、自分の足で進んでいる。

現実の世界ではそれは初めての経験で、だけど夢の中ではたまにその景色の中を自分は駆けていた。この"ズレ"がすごく奇妙な感覚を生み出していた。

自分は確かに現実にその場にいるのに、それを感じているのに、リアリティを感じない。初めてそこに"いた"感覚を持ちながらも、夢の中では何度もその場に居たし、そこを自由に動いていたのだ。新鮮だけど、新鮮なはずなのに、馴染んでいる感覚。

そんな遠出から戻り、普段の生活をしている。その日のことを思い出すと、その記憶が夢と区別がつかなくなる。たしかにその場にいたはずなのに、その体験と時間が、それまでに夢に出てきていたものと同じように記憶に刻まれているのだ。

しかしそうなると、自分で感じた"いる"という感覚の根拠はどうなる?

これがどうにもよくわからない。肌で感じた空気の記憶はあるのだが、そしてそれこそがその場に確かにいたという証だと思っているのだが、一方で夢と現実の区別が曖昧なまま、等しく自分の記憶に記録されている。

わからないならわからないで、ま、いいかなとは思っている。もう一度あの場所を同じような形で訪れる事もないと思うし。それはもしかしたらこの不思議な感覚は、再訪すればするほどただの現実になってしまう気がして、それがちょっともったいないからなのかもしれない。

ハンニバル・レクター博士の記憶の宮殿

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