funny rain, sweet breathing

知ってるか?世の中って思った通りにしかならないんだぜ?

人は何かになるのではなく、なっていくのである、ということ

Evolution
「圧倒的当事者意識ガー」な組織で全くそういったものを持たずにのほほんと生きてます相変わらず。

anaaki-gratin.hateblo.jp

当事者意識の対象が自分自身であるならばとてつもなく持ってはいるけれども。自分が今の会社にいるのは、己自身に対する圧倒的超絶ダイナミックな当事者意識に基づいた手段であり(最低レベルの生活が維持できる程度の日銭稼ぎ)、決して目的ではないからね。給料上がんねーなー、割に合わねーな―、しかもなんか面倒くさそうなランク制度導入しようとしてんな―、やっぱ3年で見切りつける方針変えなくていいかなーって考えるダメなやつですケケケ。

とはいえ別に仕事に手は抜いてないよ。フロントエンドエンジニアなんてやってて、何かを作るわけだから、見返りとなる給料分のものはちゃんとこだわりを持って仕上げてます。それ以上のものは作ってあげないけど。仕事でしかないので。要求を上げるのならば報酬も上げていただかないと。

っていうのは本題ではなく。

↑を書いた時にチラッと触れたが、人に何かになれみたいな話をする人って極端にデジタルな捉え方でもって要求するケースが多くないかと。あと、"悪しき手段として"中身を各自に考えさせる。

婚姻届を出した男女はその瞬間から夫であり妻であるのか。そもそも夫であることや妻であることの定義ってなんだろうね。昔通っていた中学校がちょっと出来の良い中学校だったからか、長期休みに入る前は必ず「〜〜生としての自覚を持って行動するように」みたいなことを言われていた。鼻ホジで聞いていたけれど。だってさ、じゃあその"〜〜生としての自覚"とはなんぞやっていう話は一切しないわけなんだもん。ありきたりに「品行方正でぇ―、思いやりがあってぇー、あそこの学生は流石と周囲から言われてぇー」っていう吐気がするような言葉すら出さない。あ、聞いてる側が吐き気を催すから気を利かせて言わなかったのかな。

教師の責務として、学校というラベルを持った生徒に対する要求を作るのであれば、それはそもそもに明確にそのラベルの定義を言語化して示して当然なんじゃないか。自分の会社の平社員に「圧倒的当事者意識を持て―」とか言うのであればくだらんワークショップで「圧倒的当事者意識ってなーに??」なんてやらずに「うちの会社にとって(つまりは自分がウンウンて頷くものだな)の圧倒的当事者意識とはこれだ!!」とかはさっさと出せよって感じ。

これが前提。

そんでもって、「これだ!!さぁお前ら、今からこうなれ!!」みたいなんとか「どうよ最近圧倒的当事者意識持ってる??」みたいな話するのは軽く失笑。

そしてようやく標題だ。

人は0から1には突然はならない。0から0.1とか0.01を積み重ねて1になっていく。婚姻届を出したその日から、生活や思考の面でそれまでの一人から二人へと変わっていく。やがて夫になり妻になり、夫婦となるのかもしれないしならないのかもしれない。どこかのタイミングで、任意の閾値を越えると"〜になった"となる。が、先日よりも仮に0.1でも何かに向かって進んでいるのであれば、それは何かになったと言ってもいいんじゃねーかとも思う。何かになるっていうのはお花畑な思考で、実際は何かになっていくのであり、閾値に加えて変化量をどれだけ見ることができるのかっていうところだと思うわけ。

一方で人も人の作る制度や仕組みも、ついでに捉え方もそういう変化量に完全に対応した、しなやかなものなんて作れないし持てないだろう。結局は刻まれた目盛りでしか測れないんだよね。けれども自分に対しても他人に対しても、その微細な変化量を感じ取ることは心がけ続けないとね。それが経営者と平社員とか、教師と生徒とかそういう関係であるならば、どちらも前者が後者の変化量の進む先は提示しないとだし(会社が「社長の思う圧倒的当事者意識を持たない人間は評価しない」ならば速攻辞めるし、学校だったら不登校になるけれどw)。あ、「っていうか会社のビジョンにあまり興味ないくせにその会社に入るんじゃねーよ」とか短絡的な話はやめようね。物事の関係が綺麗に一対一対応する要素のみなわけなかろうて。