囲い込みとオープンさのバランスが、人をより自由にするし、新たな混乱も繁栄もきっと起こせるぜ、知らんけど
Canyonて自社のロードバイクの直販頑張ってるけどさ、これって大変よね。特に地方に多い「ウチで購入してない奴は人間じゃない、出てけ」な店。本体買わん客の落とす金なんざたかが知れてるけど、そうやって追い出された人間はその店で小金すら落とさなくなるし、今後大金を落とす可能性もゼロ。
— 穴あきグラタン (@mercy298) 2017年9月7日
地方とは言ったが、東京にある某友達商会もそんなスタンスをあえて貫いているように思われるので「地方ガー、東京ガー」という話では別に無い。単純な密度の問題で、そういうものもそうで無いものも目に付きやすいのだろうなと思う。
本題は"よそ者をどこまで受け入れるか?"であり、それはつまり"誰がどこにいても何かをやれるのか?"というところに繋がる。
別に自転車に限らず、
買ってくれた人には親切にアフターフォロー。よそで買った人には有償でも修理するのに抵抗ある人が多い。移住者や旅行者にはツライよね(^^;
ということはあるようで。
個人的には飛び込みの依頼をするのであれば、通常より高い金額を払うことは厭わない。待つことになってもまぁいいだろう。でもそれで結果が良ければ今後もお金を落とそう、お世話になりたいなと思う。
一方で物理的な工数の限界はあるし、すべての依頼を二つ返事で受けていたら稼げるものも稼げなくなることは事実。
結局はそこのさじ加減なんだけど。
“ウチの客"という囲い込みをどの程度やるのか。囲い込みという戦術は間違ってはいないが、深く考えてそうしてるところってどれくらいあるのだろう。何も考えてないとか、それしかやったことないからそれしかできないっていうケースは山のようにあると思われる。
問題はその囲い込みとやらが永遠の繁栄なり現状維持を保証するものなのかという点。そこも何も考えてないケースは多そうだけど。
また自転車屋を引き合いに出してあれだが、とある熊谷の"パワーな子供達"的自転車屋の常連だった人達があるタイミングでそのお店に近寄らなくなった。そういう人達が口を揃えて言うのは「〜さんがいたから行ってたけど異動になったし、今の店長は常連は面倒だから相手にしないで新規に大金落とさせりゃいいやってスタンスだから二度と行かない」とのことで。
このお店に関しては、じゃあ少額でも継続してお金を落としてくれるような常連(もしかしたら次の1台のお金を落とすかもしれない)に見放されてまで求めた新規を、実際に獲得するための戦略を持ってるのかというと、多分無い。伝聞からの推測なので正確ではないだろうが。
これは"都合のいいよそ者"という想像の産物への依存に対し、何らロジカルな期待値は計算できていないケースとしておこう。そして、"囲い込み"の儚さだ。
話は戻って、"よそ者"の扱い。
リードナーチャリングとはまた違うが、"囲い込み"が永遠不滅ではないという前提で(当たり前すぎて当たり前なんですが)話を進めると必然的に新規獲得の重要性を考えなければいけない。
その際に、現実に「なんだかなぁ」と思うケースとは、速攻自分達に都合良く従順に大金を落とす相手しか求めていないというものだ。期待値をロジカルに計算してそれでいけるならばそれでいいけど、そうでなければ当たらなければどうということはない大艦巨砲であり、出会って3秒で合体できると信じる合コン負け常連童貞野郎だ。
特定の趣味であれ業務であれ、お金を機材やサービスに落とすサイクルというのが存在しているのだから、そのサイクルをうまく誘導すればいいのにね。
儚い囲い込みや幻想みたいな大艦巨砲でも、"これまでは"上手く回っているケースが多いのも問題かもしれない。そんなのは"黒船"が来ただけで崩壊するというのは、日本の色々な業界で起きていることなのだが。
じゃあどうしようか。
さじ加減なんだけど。
囲い込みは否定しないが、それと同じくらいによそ者を受け入れる発想が必要だろう。
そのさじ加減をどれだけ考え続け変え続けられるか。
見返りはあれだ、「ここにいないとこれはできない」という人が減って人がもっと動けるようになるだろう。それはお金も動くことになる。結果として世の中の流動さが増して、それにより繁栄も崩壊も起こりまくる。
なんて面白いんだ。
そこには囲われる自由も、流浪する自由もある。
結論としては、酔っ払った帰りの電車でスマホでどれだけ時間潰しに文字が打てるのかってとこだったのだがここまでくると、こんなにも通勤で時間使ってるのかと地味に凹む。
以上