苔の芸術、京都は祇王寺。そして生き物の大きさは
京都の嵐山にある祇王寺。
嵐電の嵐山駅辺りでレンタルサイクルを借りれば、ほぼ道なりに10分程度進むとある。ここと、その入口の横から行ける滝口寺は個人的におすすめなスポット。
ここはお寺そのものというか、その庭が圧巻なのである。
苔で有名な場所っていうのはいくつかあるんだけど、ここは結構穴場なんじゃないかと思っている。穴場でとても素敵な場所なので、こういう弱小ブログでなくては紹介なんてできやしない。
ここの庭園は大小様々な苔が織りなす緑で覆われている。藤子・F・不二雄の作品の1つである『みどりの守り神』を思い出した。そんな場所だ。
- 作者: 藤子不二雄
- 出版社/メーカー: 中央公論社
- 発売日: 1987/03
- メディア: 単行本
- 購入: 4人 クリック: 27回
- この商品を含むブログ (4件) を見る
人間の足元に視点をやって眺めてみると、そこはあるいはナウシカの世界・・・ではなくてもいいんだけど、我々のサイズの"世界"における森丘のような景色がそこには広がっている。ガンプラとか置くとそれだけでジオラマになってしまうような・・・とも言える。やっちゃダメだよ、念のため。
「こういう小さいスケールでもそうなのか」と思うのか「自分達くらいの規模でもそうなのか」と思うのかっていう点で、ふと思うところがあったようななかったような、そんな気分にさせる場所である。祇王寺は。
食物連鎖の頂点に人類はいるとはいえ、結局この星の生きとし生けるものの維持に貢献している真の支配者たる存在は、何億年か昔に自走(?)を始めたタンパク質の塊である細菌達であり、そこから少しばかり高等になった微生物である。
生命っていうのは人類が思うよりもミクロなものがこの星ではスタンダードである・・・決して観察することのできない時間の流れに、調子に乗ってインテリぶって思索を巡らせるにはいい場所である、祇王寺は。
極大と極小はつながっている・・・的な発想というのは科学的であるか否か如何にかかわらず前からあるが、大きいも小さいもつながっているというか、発生して生きて果てるサイクルにおける文法が単に同じである、とも言えるのかもしれない。