funny rain, sweet breathing

知ってるか?世の中って思った通りにしかならないんだぜ?

どうして、がっこうのしゅくだいを、ちえぶくろできいちゃいけないんですか?

これな

internet.watch.impress.co.jp

まず、僕は大学のこういう課題に関してYahoo知恵袋なんかで質問して得た回答を提出する事に関しては反対派。自分が指導教官だったら容赦なく落とす。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

出題した本人も書いているし、そもそもそれが大学教育以降、仕事をするにしても当たり前なんだけど

本課題は唯一の答えを設定しているものではなく,様々な回答を期待して出題したものです.

ってとこなんすよ。
いや、そんなの初等教育から当たり前であって問題ないんだが。というか、本当に初等教育の最初とかの段階であればまだそういう感じだったのかもしれないが。

何か回答すべき課題を与えられた場合、あるいは自発的に疑問を感じてそこから問いを立てた際の動き方。話題に上がっている課題でもそれ以外でも、課題文/問題文の内容をググったら出てきたサイトの中身をうまく利用して文章を作る/答えを作るっていうのは別に要求されていない。そんなことは知らないと開き直ると、己の幼稚さの証明になってしまうのでそういうことだっていうのはまず知っておこう。

求められているのは、お題という抽象度の高いものをいかに各自なりに噛み砕いて扱えるサイズと具体性を持った小さなトピックに切り分けられるか。それらのトピック同士の関係性を各自なりに再構成できるか。その関係性からお題に対して各自なりの仮説を立てられるか?

とかこの辺りのはずなんだよね。
過程を評価してもらえるのは小学生までだけど、評価される結果に到達する過程を考え出すトレーニングは大きくなってこそやるべきだし。

仮説を立てたら、あるいはその前段階での関係性を構成する際にググるなり(オススメは一切しないが)知恵袋なり、直接知ってる人の話を聞いたりするもの。

ググる時のキーワードの選び方がうまいだの、知恵袋とかで聞けば楽だしそういう手法を知っててドヤァッ!というのについて開き直りで評価を求めたって、あなたそれ、手段であって目的では無いのよ。

問いに対して正解を釣り上げる、正解のある場所を探す嗅覚ではない。なぜならばそれが正解だなんて誰も言ってないのだから。

求められていることが正解ってこともあるけどさ。
それでも自らで思考した先が正解であるし、その正解は自分以外には正解ではないかもしれないし、明日になったら正解ではなくなるかもしれない・・・だけんども"あなたの正解"を入念なプロセスを経て作るのが課題なんすよ。正解そのものを誰かに聞くのも、正解かどうかを誰かに聞くのもそれは違う。

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

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