funny rain, sweet breathing

知ってるか?世の中って思った通りにしかならないんだぜ?

「人々が自由に世界を駆け回り、定住という言葉の消える未来」な幻想に反する妄想

また勝手に思ったことを書くよ。

高齢化社会からの多死社会が過ぎた頃。途切れることのない日本の市街地の景色は一転し、まるでロールプレイングゲームのように街と街の間は山であり平原であり、そこに人の生活は存在しない。アメリカみたいに広い国土ではないのに。

人口は減り、国としても国土の隅から隅までに公共のサービスを提供する予算もリソースも無くなる。少ない人口は点として集約し、現在のAEONの巨大商業施設のように病院や学校、役所などが集約したエリアを中心に生活を送る。

一方で通信技術は発達し、インターネットとかつて呼ばれていた通信に取って代わるものが生まれる。自動認識技術の発展が2000年頃から言われだしたIoT(Internet of Things)の発想を飛躍させ、生物の細胞内因子間の、あるいは細胞間のネットワークの如くミクロなレベルでも通信が始まる。
かつてのVRやAR技術も、描写能力や通信機能、センサの発達により自然に現実に覆いかぶさる1つのレイヤーとなる。

これまでどこかに出向かなければできなかった事が、自宅にいながら実行可能になる、どんどんと。

チケットという紙切れの争奪をしていたのが嘘のように、ゴーグルをかぶれば目の前に好きなアーティストのステージが広がる。同じステージを見ている他者の3Dアバターがそこには詰めかけ思い思いに踊っている。

"出社"は自宅のデスクに向かい、その上に置かれた操作デバイスから会社のサーバーにログイン。目の前の大型ディスプレイに、必要な情報も、同僚とのビデオ通話も、誰かがフリーハンドで殴り書きした"ホワイトボード"も映し出される。

エネルギー的にも、費用的にも、多くの人が移動をしたり集まったりすることが非効率。そんな考えが当たり前になった時代。満員電車なにそれ美味しいの?

その時全国に張り巡らされた高速鉄道や空路は、特権階級のものとなる。ハイブリッド車などが流行る中であえて高級なスポーツカーに乗り、高価なガソリンを惜しみなく燃やし続ける・・・あえてやろうと思わないと、やれる資本がないとできないことのように。

自由に各地を飛び回り、お金の話をしてお金を更に稼ぐ・・・そんなことができるのはこういった時代のある意味貴族なのかもしれない。

それ以外は、各組織・細胞に酸素を運ぶ赤血球のごとく、物流を担うトラックや貨物が静かに全国を走り回るだけ。それは生産のみを行う点から、人々が住む点をつなぐ。

長距離移動は特定の人にのみ開かれる。
移動コストを払えることが1つのステータスとなる。