「チャレンジすることに意義がある」という甘えと自己満足、いつまでお花畑にいるの?
ムシャクシャして書いた。
相手は誰でも良かった。
後輩がFaceBookでとあるビジコン系の意識高い集まりの紹介をしていた。本人もそれに参加していたわけなのだが、「本気で起業したいと思っている人がたくさん集まってる。」と紹介していた割には本人色々理由つけて起業しないのよね。だからちょっと意地悪しようと思って「で、お前自身はいつ起業すんの?」と聞いたら、その後輩はカチンと来たらしく「〜で〜で、今は〜をやって、それが終わったら〜でそしたら起業する予定。」と真面目に返してきた。
ま、それはいいんだけど。
その流れに、多分後輩の知り合いが更にコメントしていて、その内容が
「こういうのはチャレンジすることに意義があるんですよ〜。力を抜いてやればいいと思います!!」
みたいなのだった。
ここで自分「はぁ!?」ってなったわけ。
何かに挑戦する、その意欲や実際に取り組むということは確かにそれで1つのアウトカムである。それは認める。
けれども「チャレンジすることに意義がある。」という言葉は、絶対に結果というものが付随してくる物事に対して、そこから目を背けているように思えるのだ。
こんなことを考えていたら、タイミングよく昨夜投稿したドリフターズに関しての記事を思い出した。
ドリフターズ4巻ついに発売と、平野耕太が操る言葉の魅力 - funny rain, sweet breathing
ここで引用した作中の織田信長のセリフ、
合戦そのものはそれまで積んだ事の帰結よ
合戦に至るまで何をするかが俺は戦だと思っとる
猿以外本質は誰も理解せんかったがな
このセリフですよ。
何かに挑戦するって、準備とか練習とか根回しとか長いスパンで捉えられもするんだけれど、最終的に結果というものが生まれる一点。この一点を超えた後に「やったことに意義があった。」とか「結果が出るまでの時間が有意義だった。」みたいに言うのって好きではない。挑戦するって行為は必ずどんな形であれ結果というのが出るのに、そこを一切考えていないように見えるからだ。
勝手に自分で自分の行いを評価して、結果に至るまでの積み重ねがどうだったか?積み重ねるための努力はどうだったか?っていうクリティカルな話から目を背けていると「チャレンジすることに意義がある。」て言葉が出てくるのではないかとか思わなくもない。
結果か過程かという鶏と卵みたいな話になってくるけれど、そもそもに"過程"っていうのを勘違いして捉えているケースは凄く多いんじゃないかと思っている。結果に対して思考を巡らさずに、どうやったら「過程は有意義だった。」と言えるのだろうか?これは、横浜家系ラーメンを食べたら残りのスープは追加ライスにかけて食べるっていうくらい当たり前に連続しているものであって、二項対立で語るものではないはず。
過程を評価するのであれば、それは生まれた結果を冷静に事象として分析してからやれって感じ。
チャレンジっていうのは過程ではなく、過程と結果だ。
そして過程と結果はシーケンシャルな関係だ。
あと、誰もが何かに挑戦しないといけないわけじゃないし、そもそも挑戦というものがそこまで大げさなものしか示さないってわけでもないと思うけどね。いんたーねっつやらビジネスの世界ではやたらと、そういうのが叫ばれてもてはやされますが、息苦しいしつまらないって・・・というのはまた別の話として。