サイエンスとしての記録と再生の限界について
親戚に種屋さんを営んでいた方がいて、その人の事を聞く機会があった。
野菜の種というのは一度種屋さんから購入たら、その年以降は自分達の畑で育ったものから種を採って翌年蒔けばいいというものではない。
2年目あたりまでは問題がないのだが、それ以降になってくると、もともと購入した品種とは徐々に別のものになっていってしまうそうだ。遺伝的な話だが、学生時代に習ったであろうメンデルの法則を思い出すとこのことはわかると思う。
では種屋さんはどうやって特定の品種を維持し続けているのか?
親戚の種屋さんが、月1くらいで委託農家(食材としてではなく、種を得るために栽培してもらっている)の所に足を運んでいたそうだが、その時に選定を行っていたわけである。委託農家の畑で育てられている株を一つ一つチェックしていき、本来の品種以外になってしまっているものを除去していく。こうすることで品種を維持してるのだろう。
この選定は、例えば茎や花の形などを基に判断されるのだが、その指標は全て種屋さんの頭の中にある。つまり、科学的に遺伝上一致するものを計測・分析して選ぶのではなく、人の頭の中のビジョンを基にして遺伝的にも(おそらく)同一な品種が受け継がれてきたわけだ。
何らかの野菜の特定の品種に関して専売特許を持っているような種屋さんは、このビジョンを一子相伝みたいな形で脈々受け継いできたのだろうなと思う。
科学的にやるのであれば、全ての株のDNAを採ってきて解析、元の品種と一致するものを見つければいいのだろうけれど。
逆に、この人の頭の中のビジョンの継承という点においては、現代の科学はおそらく何もできないのだろうなと感じた。
科学は、記録する技術とそれを再生する技術、そんな見方があると思う。人と切り離して何かを記録し、他の人にも再生できるようにする。でもまだ人のビジョンの記録はできないみたい。
上に挙げた野菜の例で言えば、茎の径を測定したり、画像認識で花の形の類似性を見つけられるようにしても、多分それはこの種屋さんのビジョンを再現はできていないのだろうなと。
他の人にも"それっぽいのが作れる"という点では、音楽における楽譜も似たようなものかなと。五線譜に記録可能な音階で、僕らはずっと昔の音楽家の作品を再生している。でも、もしかしたら、五線譜というデジタル化を経て記録される前は、別の音がそこには生きていたかもしれない。
どちらがいいかはまた別のお話だけれどね。
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